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同窓生インタビュー

<2003年>
鈴木朋幸さん NIC第2期生 埼玉県・県立越谷南高校出身/武蔵大学中退
私立ニューヨーク大学ファインアーツ卒
キュレーター


100年後、200年後にも評価される作品、
歴史に残る映画を創ることが今後の目標!


いま私は約6年間務めた水戸芸術館を辞め、フリーで、外国人アーティストによる映画や、日本のインディーズ映画監督による作品のプロデュースをしています。そうした作品の上映も企画していて、先週は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で、先方の学芸員と打ち合わせをしてきました。昨年、私が日本で紹介したマシュー・バーニーという作家の大規模な個展がグッゲンハイム美術館で始まるところで、そのオープニング・レセプションへの出席もかねてです。帰るとすぐ、京都でキュピキュピというクリエイティブ・ユニットのライブでした。日本人のユニットですが、パリのパレ・ド・トーキョーとロンドンのテート・モダンという美術館で映像を使ったライブを行うので、京都も含めたライブの様子を映画化しようということです。こうしたペースで、世界各地を飛び回っています。日本とアメリカ、ヨーロッパが多いのですが、最近はアジアにも進出しています。

NICに入るまでは、東京で大学生をしてました。当時は、いわゆる「バブル」の絶頂期で、とにかく世の中全体が浮かれてました。企業も大学生のイベントを気前よく協賛したもので、企画への資金提供などは、星の数ほどありました。六本木の人気ディスコでは、女子大生やOLを集めるパーティーが毎晩のように開かれてたのです。私もその手のイベントのオーガナイザーだったのですが、だんだん男女の出会いを前提にしたパーティーに飽きてきて、余興として肉体パフォーマンスだのビデオアートのモニター上映、現場で映像と音楽をシンクロさせる、いまでいうVJの先駆けみたいなことをしました。私はただ面白いからやっていたのですが、それが話題となり、次のイベントを依頼される。そんな時代でした。振り返ってみると、イベントのオーガナイズというのは、マネージメントでありマーケティングなので、今の仕事と近かったのですね。

でも、そんなバブル期のはしゃいだ社会が偽物に感じて、もっと本物を見ようと、ローマやエジプトを旅行しました。もともと考古学や建築に興味があったので、楽しかったです。かれこれ半年ぐらい海外で生活をしていましたが、自分が日本人であると意識させられたのが、新たな発見でした。

エジプトから帰った直後、今度は現代のアートに触れたいと思い、ならばニューヨークが一番だろうと、軽い気持ちでコロンビア大学に短期留学しました。夏休み中に授業をするサマーセッションで、ニューヨーク市内の美術館を訪れ、教授の指導のもとに作品鑑賞し、レポートを発表する授業があり、旅行気分で多くを吸収した覚えがあります。たった1ヶ月半でしたが、マンハッタンで実際に生活して、ニューヨーカーのライフスタイルに触れたと思いました。このとき日本の大学に対しての興味は、ほとんど残っていませんでした。もともと日本の大学には否定的だったのに、さらに物足りなさを感じたのです。帰国後、正規の留学を決意するのは、自然な流れでした。

NICに入ったのは、新聞広告を見たのがきっかけでした。手掛けていたイベントや、その残務処理があったので、1年間日本にいながら勉強できるのは、好都合でした。NICのクラスは学生の年齢層が広く、30代の主婦から高校卒業したての10代、加えて、日本の大学や企業を経験した20代と多彩で、大学に対して多様性を求めていた私には、魅力的な環境でした。 NICでは、大学レベルの英語を体系的に学べました。特に「この問題を何分以内に答えよ」とか、宿題にしても量が多いので、全体にスピードが重視されていて、速く答えを出すスキルが身についたと思います。講師陣も気さくで、授業後、一緒にカフェに行ったりしました。ある講師の兄がニューヨークで美術品修復師をしていて、夏休みに遊びに行ったりもしました。

渡米後、最初に通ったのは、ニューヨーク市立大学です。アートとアーバン・デザインを専攻し、アートは実技でなく戦後美術史を、アーバン・デザインは都市文化論やニューヨークの現代史を学びました。ニューヨーク市立大学は、入りやすく出にくい大学で、人種や文化的背景の違うニューヨーカーが集まるマンモス校でした。色々な学生と知り合えたのはプラスでしたが、市の財政難を反映して、発表された授業がカットされるなど、履修には苦労しました。それから、大学が、あらゆる階層の人に教育の機会を与える目的で機能していたので、向上心のある学生も、そうでない学生も入り交じっていて、なんとなく「やってもダメだ」というような、停滞した雰囲気を授業で感じました。それは、私が求めていたレベルの高い競争とは違っていたのです。

そこで私立ニューヨーク大学(NYU)に編入したわけです。出願の条件で、評定平均(GPA)が4段階で3点代後半、英語力がTOEFLで550点、さらに、自分が高等教育で学ぶ意義を願書に書き、添付で、与えられた題材の小論文と教授の推薦状が必要でした。決して低くはないハードルですが、幸い合格できました。GPAが高かったのは、アートが好きだったためでしょう。美術史も含めた世界史の知識や、文章を読む力と書く力があったのが、ラッキーでした。英語でのディスカッションは、最初は大変ですが、徐々に慣れて、クラスの中での自分の居場所が分かってくるものです。

NYUは、私立で授業料が高いせいか、仕事をしながら学んでいる学生がたくさんいました。専攻が、ファイン・アーツだったので、自分のアートを販売してる学生や美術館で働いている学生など仕事も多彩でした。私は、日本の雑誌にニューヨークのレポートを書いたり、現地取材のコーディネートをしたりしていました。マガジンハウス系の週刊誌や、外国系の女性ファッション誌、創刊したての情報エンターテインメント誌などでした。例えば、現地で話題の展覧会や日本人アーティストの個展の情報をまとめて編集部にFAXすると、その時は掲載してもらえなくても、しばらくして「ニューヨーク特集を組むので何か情報が欲しい」と依頼されるのです。いまほど盛んでないですが、フリーペーパーも結構あり、編集者がニューヨークまで飛べないが、記事は載せたいという場合、無償でお手伝いしましたよ。

イベントのプロデュースや展覧会のコーディネートは在学中からのことです。私のゼミは「ミュージアム・マネージメント」といい、美術館や劇場の運営を研究するもので、メトロポリタン美術館や近代美術館(MOMA)などで体験学習もするわけです。私の場合は、「日本クラブ」という非営利組織のギャラリーで、元ホイットニー美術館学芸員のディレクターに次ぐ役職での仕事でした。主に海外赴任している日本人に向けたアメリカ文化の紹介と、逆に現地のニューヨーカーに向けて日本文化の紹介をしていました。書家の柳田青蘭を現代美術風に紹介した展覧会は、日本テレビ系列の番組で収録され、国内でも紹介されたと思います。別のギャラリーですが、藤井フミヤの個展もサポートしましたよ。

その頃は、ソーホー(SoHo)と57丁目がアートの中心と呼ばれていました。SoHoは、比較的若い、これから伸びるアーティストが中心で、57丁目では成功した大物アーティストが個展を開くのです。そんなセレブな57丁目で、まだ20代のアジア人が活躍するのは珍しかったようで、地元の新聞にも取り上げられました。その記事を読んだオーナーから誘われ、57丁目の商業ギャラリーに移ったのです。 商業ギャラリーは、助成金などで運営する非営利ギャラリーとは違い、展示をするアーティストに製作のアドバイスをして、発表後の作品を美術館や収集家に販売しなければ運営できません。私は、アソシエイト・ディレクターとして、主に映像作品のプロデュースとプロモートをしましたが、休みのない生活が体に負担をかけ、検査を受けると「胃の手術が必要」と言われたのです。ニューヨークは医療費が高いので、帰国して半年ぐらい休養してましたが、結局、手術はしなくて済みました。

休養中、日本の先端的な文化施設、水戸芸術館に空席があり、採用されました。職員として、一番力を注いだのは、水戸芸術館の活動を普及させることでした。日本の地方自治体は、よく「箱モノ行政」と批判されますが、建物はつくるけど、完成後の運営費は出さないので、自前で良質なイベントはできず、時間貸しで外注してるのです。一方、水戸芸術館は、その完成後も、水戸市が年間予算の約1%、額にして10億円程度を毎年計上し、良質な文化活動を保障しています。すると今度は、市民に対して、その予算をどう生かしてるか、示さなければならないのです。コミュニティFMでレギュラー番組をしたり、印刷物の刷新もしましたが、結局、内部の人間と市民が共同でイベントを行い、水戸芸術館の活動に参加してもらうのが一番と考えました。その結果、石井聰亙や黒沢清、石井克人などの映画監督と観客が交流できる映画祭を開催したり、全国の若手を対象にした映像コンペティションを開き、受賞者の映画製作を支援したりすることになりました。昨年、都内のミニシアターで記録的にヒットした福島拓哉監督『PRISM』は、私がエグゼクティブプロデューサーです。プロデュースといえば、アメリカのアーティスト、シャロン・ロックハートが監督するフィルム作品で、水戸市の隣にある茨城町をロケ地にしようと、町長を訪ねたこともありました。ロケ地といえば、水戸芸術館で木村佳乃が主演するNHKドラマの撮影もしました。

これからは、歴史に残る映画創りに挑戦したいです。それも、100年後、200年後にきちんと評価されるような作品です。これまでプロデュースしてきた作品は、アーティストやインディーズ監督が撮るものなので、美術館や単館系映画館での上映を念頭においていて、製作費は高くても1千万円ぐらいでした。まず、これを製作費1億円以上でも回収できる市場メカニズムをつくり、そこから調達した資金で歴史に残るアート映画を撮りたいですね。較べてみると、ハリウッド映画は産業です。投資した資金で映画を製作し、劇場公開、テレビやDVDなどの二次使用、関連グッズのロイヤリティなどの収入で、関係者の生活が成り立っています。しかも、ヒットすれば、出資した何倍もの金額が投資家に戻るのです。そんな、システムをアート映画にも適応したいと考えています。また、債権のようなものを一口いくらかで募ることも考えています。その際、投資リスクを軽減する工夫として、必ずヒットしそうな役者や監督の作品を含めた、様々な作風の作品をまとめて、全体を切り売りするとかも。1つの作品がコケると関係者みんなが沈むような博打ではなく、市場を確立した上で、映像ソフトを供給したいのです。

私も含めた大人たちが送った高校時代と、現代の高校生の生活は随分違うはずです。でも、大人たちは、自分の経験を語りたがる。だから、そんな話は軽く聞き流し、自分で考え、行動することが大切だと思います。まわりを説得してでも、思い切り好きなことをやってみる。そうした方が、人生に納得がいくのではないでしょうか。

「水戸短編映像祭」がきっかけで撮った福島拓哉監督『PRISM』の劇場公開チラシ。エグゼクティブプロデューサーを務める。公式サイト:http://www.p-kraft.com(P-kraft) 世界に先駆け開催したマシュー・バーニー『クレマスター』フィルム・サイクルの劇場公開チラシ。上映の企画と製作を手がける。公式サイト:http://www.cremaster.net(CREMASTER)



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