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同窓生インタビュー

<2003年>
中村勝芳さん NIC第3期生 静岡県立富士東高等学校出身
カリフォルニア大学デービス校数学・物理学部数学科卒
富山大学大学院修士課程地理学専攻卒
静岡県立森高校教師

自分はどう考えても運がいい。
苦労もしたけれど、出会いには本当に恵まれたから。


現在は静岡県立森高等学校1年5組、男子22名、女子18名の担任として教壇に立っています。現場ではドラマ以上に想像もしないことが起きるので、大変といえば大変ですが、それがやりがいなので、仕事を楽しんでいます。まだまだ修業中の身ですから、教える、指導するというより、気持ちだけは誰にも負けないように生徒に体当たりしている毎日です。

教員に憧れたのは、中学生くらいのことです。小学校、中学校と、素敵な先生と出会い、生徒と一緒になって遊んだり相談に乗ってくれる姿を見て、先生っていいなと漠然と思っていました。国際人になりたいと思ったのは、高1のときに兄とイギリスに観光旅行に行ったことが引き金です。イギリスでは言葉が通じないショックと、異文化のなかで日本では得られない刺激を受け、それから日本で平凡に過ごす人生でいいのだろうかと考えるようになりました。

とはいえ、高校生活は、特に部活に熱中するわけでもなく、目立ちもしないし、普通の高校生でしたね。高2までは日本の大学を受験するつもりでいましたし、やりたいこともなく、ただ理系が得意だから理系の学部に行こうかと考えていたぐらいでした。はっきりと留学を決意したのは、高3の春でして。ある日の夜、世界を転々とする職業に就いている自分の夢を見て、さして魅力を感じていない日本の大学に我慢して行くより、夢で見た人生を選びたいと思うようになりました。両親や担任の先生からは「絶対にだめだ。留学はそんなに甘くない」と言われましたが、それを押し切って。ただ自分は理系科目は得意でしたが英語にまったく自信がなかったのですが、たまたま見た留学の雑誌に載っていたNICの案内を見て、入学を決めたのです。

NICに入学してみると、自分の英語レベルは思っていた以上に低いことが改めてわかりました。たとえばレポートを書く授業では、毎回先生が全員の文を読んだうちから、注意すべき表現例として5例ほど指摘するのですが、いつもそのうちの2、3例は自分の文章があげられていたほどでした。しかし、留学後、さまざまな場面で自分の英語が何とか使えるようになったのは、熱意を持った先生が多かったおかげだと思います。そしてなにより、NICでは同じ目標を持つ仲間に出会うことができました。当時学校は浜松町にあり、竹芝桟橋や芝公園に行っては、渡米後の目標を語り合ったことが懐かしい思い出です。

渡米後、最初に通ったアラバマの2年制大学では、はじめのうちは黒板に書かれたことはとにかく全部写して、帰ってからも毎日復習は欠かさないようにしていました。リスニングに完全に慣れるまでは1年くらいかかったと思います。ただ数学は日本のほうが進んでいたし、働きながら通うアメリカ人より時間に余裕があるので、普通に勉強すれば成績はほとんどAでした。

もともと日本にいたころから「カリフォルニア大学(UC)」に憧れていたので、アラバマで勉強しながらも、入学したい気持ちが日に日に募っていきました。オレゴン州の2年制大学に編入したのはそのためです。本当かどうかはわかりませんが、当時カリフォルニア大学に入りたいのなら、カリフォルニアに近いカレッジのほうが有利と聞いたので。このころは“絶対にカリフォルニア大学に入ろう”と人生の中でも一番勉強したように思います。オレゴンでは、大学内の学生センターで、毎日閉館時間ギリギリ、夜の11、12時ぐらいまで勉強していました。日本人と話したのは半年の間でも数えるほどで、確か2回ぐらいだったと思います。個人のチューターをつけて勉強した時期もありました。いま思うと、本当によくがんばったと思いますが、やはり目標があったからできたのでしょうね。

努力のかいあって、カリフォルニア大学デービス校に合格しました。が、そこでの授業の難しさと宿題の量の多さにびっくりして、1週間でドロップアウトしてしまいました。とりあえず1学期休学することにして、自分の荷物は全部レンタルの貸し倉庫に突っ込んで、逃げ出すように帰国しました。デービス校では、宿題の量も、その難易度もぐんと上がっていて、本は1週間に200ページぐらい読まなきゃならない。それが読み切れないと次の週は300ページぐらいにたまってしまう。この生活がこのまま2年間続くと考えたら、もう無理だなと思いこんでしまったんです。無理にでも続けていれば、やがて要領を覚えるということもあると思いますが、その当時はそこまでの余裕は心のどこにもありませんでした。 そんなわけで、日本で就職口を探すわけですが、いま思えば完全に逃げ道ですよね。自分自身が一番納得できていない状態でしたから、就職も、そんな中途半端な気持ちでは、うまくいくはずもなく。それで結局“またアメリカでだめになってもいまと同じで、それより悪くはならない。でも、挑戦すればよくなることもあるんじゃないか”と思いなおし、アメリカに戻ることにしました。だめもと、というやつですね。

アメリカに戻ってすぐ、寮で知り合った日本の大学院からの留学生に『今度自分の教授がバーベキューをやるからこないか』と誘われて。その教授と野球の話題で意気投合し、自分が勉強についていけるかどうかの瀬戸際にいることなど、悩みを打ち明けました。するとある日その教授から『まだ日本では研究されていない「スポーツの地理学」を自分の研究室(富山大学大学院)でやってみないか。その前に数学を、このデービス校でしっかり勉強しなさい。数学は地理の統計分析にとても役立つから』と言われました。それまでは勉強していても希望というか、その先が見えていなかったけれど、その先生に、数学の知識を生かして好きなスポーツの研究をやってみたらと言われたとき、急に道が見えたんです。何か自分の興味と意欲を引き出してもらったような感じがして、それからは日本に戻るのではなく、ここを卒業して、教授の待つ大学院に早く行きたいという気持ちになりました。

積極的な気持ちになれおかげで、新3年生として編入したデービス校を1年半で卒業することができました。まるまる1学期のブランクがあったにしては上出来でしょう。3月に卒業しないと日本の大学院に間に合わないという事情もあったので、何とかがんばりました。1度はもうだめだと思って挫折したにもかかわらず、卒業することができたのはその教授に出会えたおかげだと思います。モチベーションの大事さを身をもって体験し、自分もこういう先生になりたいと、中学のころの夢がまたよみがえってきました。

富山大学の大学院にいるころは、大学の先生になろうと思ったので、はじめのうちは研究ばかりの日々でした。富山大学で修士号をとり、教授と一緒に名古屋大学に移ったのですが、高校の教員になりたいと思いはじめたのは、大学の先生は研究が7割で、教えるのは3割ぐらいしかできないと気づいたからです。自分としては、もっと生徒とじかに接する教育現場で働きたいと思ったので、教職をとるため、愛知県立大学英文科に編入しました。この先生だったら落とさないだろうという先生ばかりとっていましたから、単位を落とすことはなかったのですが、成績は優・良・可の「可」がほとんどでした(笑)。アメリカの大学時代とは全然違いますね、まあ授業料や生活費を自分で払おうと、仕事をしながらだったということもあったので。塾の講師や携帯電話の販売、スーパーの前でたこやきを焼いたりなど、ありとあらゆるアルバイトをしました。一日に2つ掛け持つときもよくありました。

中でも、名古屋大学の大学院で、先輩から後輩に代々受け継がれている病院での夜勤のアルバイトは、2年間行い、強く印象に残っています。看護助手といって、医療行為はできませんが、夜中ナースコールが鳴ったら行って対応することがメインの仕事です。あとは院内の見回りと、老人の患者さんのおむつ交換ですね。食事のときに、車いすに乗せたりという力仕事もします。ナースコールが鳴らなければ暇ですから、その間に勉強したり、仮眠もさせてもらい、食事も病院の栄養バランスがとれたものが朝と夕に出るので、なかなかいい環境でした。自分と一緒に勤務していた相棒は、いま博士になりましたけど、名古屋大学の研究室にいたときの同期で、自分は教員採用試験の勉強を、彼は博士論文を、お互い励ましあいながらやっていました。彼は教育学部出身だったので、教育学の専門用語も教えてもらったり、逆に自分も彼の論文を読んで、アドバイスしたりしていましたね。

アメリカで出会った先生は、一生の師ですね。あそこで出会っていなければ、自分の人生は、きっとまったく違ったものになっていたと思います。もっと言うなら、寮にいた日本人留学生が、ビリヤードをやっていなかったら、いまの自分はいないかもしれない。たまたま寮の地下でビリヤードをやっていたところに声をかけたら、久しぶりに日本人に声をかけられてうれしい、ということでバーベキューに案内してくれたんです。だから彼がいなかったらどうなっていたか、ということにもなりますね。

もともと努力家ではない自分が、ここまでやってこれたのは、そういう出会いに勇気づけられたことも大きいですね。教員採用試験のときも、すごく倍率が高かったけれど運がよかった。教員になったのは29歳ですが、試験を受けたのは28歳でしたから、自分の中で、もう年齢的なリミットは来ていましたね。ずっとまともに就職しないできていたので、とにかく絶対に一発で合格しようと考えて、地元の静岡県の高校教員(英語科)を受験したところ、運よく合格することができました。

担任の仕事は忙しいですよ。本当にいろいろやっていますね。生徒指導も結構大変。今日も運転免許センターでこっそり生徒が試験を受けにくるのを張っていたり(静岡県の高校生はオートバイ免許禁止なので)、そんな刑事みたいなこともやります。顧問をしている部活はボランティア部です。

名古屋大学にいたころからボランティア活動にはまっていて、いまは2週間に1回、水曜日の夜に地域の人に英会話を教えたりもしています。田舎だからおじいちゃんおばあちゃんが多いんですけど。ボランティアに興味を持ったのはデービス校にいたころからですね。ちょうど阪神淡路大震災があって、共同募金したのがはじまりです。その後、名古屋大学の研究室にいたときに、縁があってアメリカで知り合った教授の同級生にあたる人が主宰するNGOの井戸掘りをバングラディッシュでやらせてもらったんです。そのNGOの主宰者は、退職金をはたいて自分でNGOをつくって、援助をやっている人だったので、「なぜ自分の退職金をつぎ込んでまでやっているんですか?」と聞いたら、「ほかの人が幸せになることが自分の幸せなんだよ」と言われたんです。ありがちかもしれませんが、その言葉が自分の心にずしっと響いて、それからボランティアにも熱を入れるようになりました。

去年のワールドカップも、すぐそばが静岡スタジアムだったため、自分は通訳のボランティアとして参加し、またその活動を授業にも取り入れていきました。自分の町は日本代表の合宿所になったので、メディアセンターという監督や選手が会見するような場所で、生徒たちにボランティアをさせたり。めったにない機会なので、いろいろ活用させてもらいました。考えると本当に運がいいんです、自分は。日本全国に市町村はいっぱいあるなかで、自分の町が一生に1度来るか来ないかのワールドカップの日本代表のキャンプ地に選ばれるなんて。どう考えても運がいいですね。

ちょっと偉そうかもしれませんが、人は夢に向かっているとき、あるいは夢の舞台にたっているとき、一番輝いていると思います。うさんくさくてもいい、まわりから何と言われてもいい、いつになってもいい。夢は見続けているかぎりかなえられるものだから、自分のことを信じて、がんばってください。

2006年、本を出版しました!

えほん 森の石松 (えいご訳付き)
静岡県立森高等学校3年5組(2005年度)・文絵
中村勝芳・編著
本体価格952円 A4判 40ページ
NDC289 ISBN4-89317-358-8 C0723



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