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同窓生インタビュー

<2003年>
鵜殿益任さん NIC第3期生 千葉県・県立若松高校出身
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校健康科学・人間科学部アスレチック・トレーニング学科卒
株式会社リコー ラグビー部アスレチック・トレーナー(リハビリ担当)

そのとき自分に興味があることを学ぶ。
その選択が将来の方向を決めるんです。


例えば数学の場合、小学校でつまづくと中学にもひきずっていきますよね。でも英語は違った。中学校に入ってはじめて習うほかの国の言葉なので、新鮮な気持ちで取り組むことができたと記憶しています。英語には最初からとても興味があり、一番好きな教科でした。

中学、高校と剣道に夢中で、高校時代は部活に明け暮れていましたから、大学も剣道が強くて英文科のあるところを狙っていました。高校2年生ぐらいのときから、ずっと英語を話せるようになりたいとは考えていたんですけど、何をどうすればいいか、まるで具体的には考えていませんでした。大学入試もほぼ終わり、第一希望ではないけれど合格した大学もあって、最後の試験に向けて勉強していたときのことです。どういうわけかNICのパンフレットを手に入れて、突然受験しようと決めました。英語が話せるようになりたいという気持ちと、カリフォルニアで趣味の波乗りがしたいという気持ち、それからやはり第一希望の大学に入れなかったことが大きかったと思います。確か両親には内緒でした。 両親には反対されました。NICに入れると決まったとき、日本の大学で合格しているところがあるのになぜ、ということはかなり言われました。どう説得したかというと、そのとき、編入のことも調べていて、アメリカで2年制大学へ行っても日本の大学に編入できることを知ったんです。TOEFLのスコアが一定以上あれば3年次に編入できる。それが確か当時は上智大学で。受験生のときの私の学力では難しかったけれど、留学してTOEFLが何十点か上がれば上智に編入できる、というのは、とてもいいアイデアに見えたんです。それで親にも、こういう編入のチャンスがあるからと言って、最後はそれで説得しました。留学することについて、まわりの人間や友人は、あまりよくわかっていなかったと思います。先生も、「何しにいくんだろう」という感じでしたね。

NICでの勉強は、高校までのそれとはかなり差がありました。日本の英語教育は10年習ってもろくに話すこともできないという批判がありますが、まさにその通りで、聞く話すという壁に、思いきりぶつかっていましたね。それまで自分なりに得意だと思っていた英語が、聞いたり話したりになるとまったくできませんでしたから。聞かれているのはすごく簡単なことだとわかっていても、紙の上なら絶対に答えられることが、答えられない。そういうもどかしい状態がずっと続いていました。ちょっとしたことだったんです。いま思えば、先生によって少しずつ発音が違うことなど当たり前ですが、そういう細かい差がわからず、ただ、自分の聞き方が悪いんだと、ずっと思っていました。発音のクセや微妙な差を、自分に聞く力がないためだと思いこんで、余計わからなくなっていたんですね。それは海外に出てから気づいたことだったけれど、そのときは「あの先生のは比較的わかるけれど、こちらの先生が話していることは、どうもよくわからない」。やはりそれまでの人生で英語を話すことがなかったわけですから、そういう人間が急に話すには、緊張というか心理的な壁もあるものです。

クラスには英語が上手な人もたくさんいましたよ。クラス分けテストでは多分、下のほうのクラスでしたが、それでも話せる人がたくさんいました。親には「編入できる」と言っていましたが、TOEFLが何点必要で、どの大学が受け入れてくれるかというのは、詳しくは知らないままで。とにかく留学に関しての知識がないので、すがるような気持ちで勉強していたのだと思います。NICに入ったころは430点くらいだったTOEFLが、最終的には620点くらいまで伸びました。

NIC在学中は、アメリカでビジネスを学んで、英語が話せれば、どんな会社でも大歓迎だろうと思っていました。若かったから何の根拠もなく思い込んでいたし、大人たちも当時よくそういうことを言っていたんですね。バブルの時代だったので、英語が得意ならOKとか、MBAを持って帰ってきたらエリートだとか。そういう話を日常的に耳にしていたので、ただただ、あっちでビジネスを習って帰ってくれば!というのは勝手に考えていました。

渡米してサンタバーバラの2年制大学に入りましたが、経営学部の本物の授業は想像していたものとまったく違いました。だから授業中の先生が言っている言葉がほとんど聞き取れない。それから今話していることが、世間話なのか授業の内容なのかもよくわからない。1学期で12単位以上が基準で、その12単位を割ってしまうと、警告書をもらい、それが2回続くと退学になってしまってその大学にいられなくなるんです。そうすると学生ビザも打ち切られてしまうので必死でした。数学、経営学、歴史、法律などいろいろな分野を学びましたが、特に法律は、まず専門用語がわからない。それから法律の判例というのは、世間一般の常識的なことや周辺の話題など、あちこちへ飛ぶので、数学と英語以外、ほとんど何を言っているかわからない状態でした。

このままでは編入に必要な成績はとれないと思い、自分なりに考えた結果、授業をいつもテープで録音することにしました。クラスの仲間は、みな授業中必死にノートをとっていましたが、自分はもうノートをとるのはあきらめて、耳だけで聞くようにしていました。人間は書くより、話を集中して聞いたほうが頭に入るというのをどこかで聞いていたんです。ですから、授業が終わってもノートは白紙状態。そこで、授業が終わった後、クラスの友人からノートを借り、それを写しながらテープレコーダーの話と合わせていくという、とても手間のかかる方法で勉強していました。時間は2、3倍かかりましたが、結果的にはしっかり理解することができたと思います。テープレコーダーを使っている人はほかにもたくさんいましたが、あくまで補助的な役割で、それはやはり「書いたほうがいい」とよく言われていたからだと思います。でも自分の場合は、その場で書いていると、スピードも遅いし、そればかりで全然進まないので。授業中たとえ内容が半分も理解できていなかったとしても、耳で聞くことに決め、最後までその方法を通しました。

成績はトランスファーの直前で、4段階で3.8ぐらいでした。NICの成績はあまりよくありませんでしたが、アメリカに行って必死になって頑張ったおかげで結果が出たという感じです。もう頼るところがなくなってしまったので、がんばるしかなかった。必死でしたね。

でも剣道と波乗りのほうは、ずっと続けていましたよ。剣道は週1回、波乗りは毎朝。住んでいたのが海のすぐ近くでしたから。マイペースなんですね。中・高校時代に剣道部でもよくマイペースだと言われました。自分のウォームアップとストレッチのためによく試合に遅れていたからだと思います。それをしないと試合に臨む準備ができないんです。気分的なものですが、きちんとウォームアップするようにして初めて勝ったので、それ以来。たしか、それで2回ぐらい公式戦のあいさつに遅れたのを覚えています。好きなことや、気に入ったやり方は、なかなか変えません。それは昔からずっとそうですね。

サンタバーバラで1年半ビジネスを学んで、トランスファーの時期が迫ってきました。そのときに、ビジネスを学び続けることに疑問が浮かんできたんです。それは自分がビジネスマンとして働く姿が想像できなかったというか、ちょっと違和感があって。自分にそういう仕事ができるのか不安もありましたし、日本はちょうどバブルが崩壊したばかりで、普通にビジネスをしていても仕事がない。MBAをとった知人から、「いま日本で仕事を探すのは難しい」という話も聞かされたりしていましたから。

そして海が好きだったというところからマリンテクノロジーを専攻しようと考えました。サーフィンをやっていたことも関係していますが、単純に海で仕事がしたかったからです。でも、このときも詳しく調べることもなく、勝手にマリンテクノロジーならいいだろうと思ってクラスをとったら、それが本物だったんです。2,000メートルに1ヵ月潜って仕事をするとか、そういう内容だったので、すぐにこれは違うと思い、今度は医学部準備コースに入りました。日本でいう医学部の1、2年生がとるような授業が多く、そこでは生物、生化学、物理などを学びました。相変わらず授業のテープは録音していましたが、スポーツ医学のクラスは大体25人から多くても30人くらいで、ビジネスを学んでいたときに比べればずっと少人数でした。先生もよく板書していました。ですから、授業も全然わかりやすい状態で、まったく問題なくやれていました。やはり自分に合っていたと思うし、興味があることだったので勉強することが楽しかったですね。

その後、スポーツ医学をより専門的に学ぶため、ロングビーチ校にトランスファーしました。最初は理学療法士をめざしていましたが、学部のウェイティングリストがいっぱいで、自分には、それを待っている時間がないことに気づきました。そこでアスレティックトレーニングを選びました。苦労したのは整形外科的なテスト。これは、体の故障部分、例えば肉ばなれや骨折、靭帯が伸びているかどうかなどを調べるためのもので、整形外科医やトレーナーをはじめ医療関係の人が共通して使うテストです。そのテストの種類が、それぞれの体の部分に分かれて何百とあるので、それを覚えるのはかなり大変でした。もう、ひたすらパートナーと、肘だったら肘のテストをひとつひとつ確かめていくわけです。また日本語でも知らない医学用語や体の組織の名前を勉強するのは、かなり大変でしたが、勉強が進むにつれて、どんどんトレーナーの世界にのめり込んでいきました。

そうして大学院まで進んだところで、マイナーリーグのアイスホッケーチームに仕事の機会を得ました。そのアイスホッケーチームで同じ学部の卒業生がインターンをしていた関係で「今度自分は辞めるから、替わりに働かないか」と誘われたことがきっかけです。トレーナー資格を取得してから初のフルタイムの仕事でした。アイスホッケーの仕事は4年続きました。最初はマイナーからはじめて、メジャーに移りました。メジャーのチームは、選手だけでなくトレーナーの競争も激しいんです。トレーナーもプロ契約ですから、更新の時期になると、私のいるポジションだけでも200通ぐらいの履歴書が来ます。それが毎年続くと、やはり仕事をしていてプレッシャーが大きいですね。つねに、200人の中でトップにならなければいけないということですから、責任者の考えひとつでスッと首になる。幸い首にはなりませんでしたが、トレーナーのなかでもトップと言われる層には、最後まで届きませんでした。

帰国するまでは、日本には専門的なトレーナーが少ないから引く手あまただろうと思っていました。でも、そうではなかったんです。日本にはトレーナーとして働く場所がとても少ないんです。なにしろ、運動を楽しむ人口がカリフォルニアの30分の1と言われていますから。カリフォルニアで、トレーナーと言えば、何をして、何が必要で、どういう資格を持っているとか、どういう勉強をしてきているとか、誰もが普通にわかることですが、日本だとそれがまったく逆で、「トレーナー?何をするの?」という感じですよね。結局、スポーツ関係のリハビリセンターのような場で働くことになり、その後、ワールドのラグビー部のトレーナーとして職を得て、いまのリコーラグビー部に移籍。現在に至る、です。トレーナーにもいろいろありますが、私はリハビリ系のトレーナーなんです。専門はリハビリやパフォーマンスを上げるトレーニングなどです。いま契約しているリコーのラグビー部では、手術あがりの人や練習に参加できない人のリハビリと、その日に怪我をしてしまった人の面倒をみることが、主な仕事です。例えば足を怪我してしまった選手がいたら、足を使わないでできるトレーニングメニューを作ったり、怪我をした足が早く回復するようなリハビリを考える。それが主な業務になっています。

自分にとって留学は、将来にわたって生きていく道を見つける旅でもありました。あのまま日本にいたとしても、おそらくそれなりに楽しく暮らしているのでしょうが、小さな満足の日々だったような気がします。大学で学ぶということが自分の将来に直結したのは、アメリカという異なる教育システムのおかげだと思います。漠然とビジネスマンになりたいと考えていた自分に、やりたいものが見つかったのですから。


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