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同窓生インタビュー

<2003年>
植松範夫さん NIC第6期生 静岡県・県立庵原高校出身
ネバダ州立大学リノ校美術学部卒
テックインフォメーションシステムズ株式会社勤務


迷いながらでも、まず一歩を踏み出してみること!

高校時代は、日本の大学に行くんだと積極的に考えていたわけでもなく、だからといってほかに何をするかもわからないで“自分もみんなと同じように受験するんだろうな”と思っていました。でもアメリカの大学を卒業して日本に帰ってきたときに、地元の友達から「高校時代も変わったヤツだったけど、さらに相当変わったヤツになった」と言われたんです。今振り返ってみると、当時から、自分ではあまり意識していなくても、まわりに合わせて同じことをしている自分に、何か釈然としないものを感じていたのでしょうね。高校のクラスは「英語科」という、英語に重点をおいたコースでしたから、ネイティブスピーカーによる授業があったり、2週間程度ですがカナダにホームステイする機会もありました。そういう経験から「ここではない外の世界」に興味が湧いたのかもしれません。学生時代は年齢を重ねるごとに、自分の世界が広がるような感じがしますよね。小学校から中学に上がるときも、また高校に行くときも、少しずつ大きくなっていたので、大学に行ったらまた自分の世界が広がるんだろうなと思いつつ、もう少し人と違ったものを見たいという願望が強くなっていたんだと思います。

高校では3年間バスケットボール部に所属して、どちらかと言うと、勉強するというより部活をするために学校に行っていました。特に2年生ぐらいまでは、勉強とか宿題なんていうものはほとんどやらない生徒で、学校からしてみればすごく迷惑だったでしょうね。ではバスケットボール部で何か成績が残せたかというと、これが、1度も勝てませんでした。ただ同じ学年の部員はちょうど5人しかいなくて、部活への思い入れが強かったのは、そういう仲間との絆というか、それが大きかったと思います。

どういう大学に入りたい、という青写真はありましたが、クラスメイトが志望校を決めていくのを見ながら、“たぶん、このまま日本で大学生になったら、きっと勉強しないだろうな”と思えてきたんです。そこで、どうせ大学に行くなら、きちんと勉強しにいけるところを探そうと思いました。それが僕にとっては留学だったんです。ガイドブックには、アメリカの大学は日本と違って、専門的に勉強したいことを、深く勉強できるということが書いてありました。

家族には大反対されました。留学を考える前に、日本での志望校を出す機会があったのですが、それが偶然、父の母校だったものですから、親がやけに乗り気になっていたんです。そういう雰囲気のなかで、留学なんていうことを言い出したら、父にはまず反対されるだろうと予想はしていました。実際に「留学したいんだ」ときりだすと、家族全員が反対で。困ったなあなんて思いながら、担任の先生に相談をしたら、その先生も留学経験者で「あなたのキャラクターだったら、全然大丈夫」みたいな後押しをしてくれたんです。日本の大学でまわりに合わせていくより、留学が向いているという助言をいただいたので、あとは家族の説得です。夕飯の後に毎晩自分で集めた資料を机の上に出して、きょうは授業についてとか、向こうでの生活についてとか、一つ一つ細かく説明して、1ヵ月ぐらいしたら「まあ、じゃあ行ってみなさいよ」となりました。

高校時代は、ろくに勉強していませんでしたし、NICの授業についていくのはかなり大変でした。まず、ネイティブスピーカーの先生が何を言っているのかまったく理解できなかったんです。“こいつはちょっといけない”と思いました。ここで1年間がんばらないと、渡米できないわけですから。あれだけ時間をかけて家族を説得した手前、ここであきらめるのはまだ早いと思って。わからないことは全部直接先生に聞いて、英語が通じようが通じまいが、とにかく自分で理解するまでは聞き倒したという感じでした。2、3か月でまず耳を慣らして、聞くことができるようになったら、今度は理解してという、一歩一歩前に進むしかほかに方法もなかったんです。

印象深かったのは授業のスタイルです。高校までの授業は、先生の言っていることを丸覚えするような一方通行の授業が多かった。NICではその逆で、先生は大まかなアウトラインを与えるだけ。そこから自分で考えて、自分で答えにたどり着くことが授業でしたから。「自分の考えはこうだから、結論としてはこうだと思う」と主張しないと、たとえ正解でも○はもらえない。自分の考え方を持つという基本が鍛えられたと思います。

そのころからジャーナリズムを学びたいと思っていたので、NICに入ったときには、すでにその学部があるリノ校に行こうと決めていました。 リノ校で学びはじめたころは、一般教養が中心でしたが、その後ようやくジャーナリズムのクラスをとってみると、どうも授業の雰囲気になじめなくて。何というかすごくピリピリしたムードが漂っていたんです。一方的な議論や決して自分の考えを曲げない態度など、ある意味ですごくアメリカ的な部分が前面に出ていたというか、アメリカ人の嫌なところも見えてしまったんですね。リノに行った当時は、主専攻がジャーナリズムで、副専攻を美術にしていたのですが、美術のほうがおもしろくなりはじめていたこともあって、アドバイザーに相談したところ「君は何でジャーナリズムにいるんだ。アートにかえなさい」と言われて“じゃあ、ちょっとスイッチしてみてもいいかな”と、そんな軽い気持ちで学部変更したんです。

もともと、子供のころから絵をかくのは好きで、小学校の絵画展で入選したり、高校時代も美術の授業はそれなりに楽しくやっていました。でもそれまで一度も美大に入るような勉強をしたことがないのに、美術学部でついていけるものかなと思いますよね。日本の場合だと、美大の勉強はかなり技術的な基礎を身につけていないとできないと思いますが、僕が行ったリノ校はどんな学部もある総合大学の、そのなかの美術学部なので、日本の美大のように限られた人を教えるような授業ではありませんでした。ただ、一度専門分野に入れば、とことん基礎から応用までという感じで、もうそれだけに没頭できるような環境は整っていましたね。

そうしてクラスをスイッチしてみると、これがしっくりきて。まず美術学部全体の雰囲気が気に入りました。みんな身なりも気にせず、本当に作品づくりだけに集中しているような、そういう雰囲気が心地よかったし。僕は写真を専攻したんですけれども、同じものを撮っても、撮る人によって、あるいは焼き方によって、印象ががらっと変わってくる。そういうおもしろさがわかってくると“1枚の写真の力だけで、人の目をグッと惹きつけるようなものをつくりたい”という表現欲のようなものが出てきて、もうずっとそのことばかり考えて作品づくりに没頭していました。

リノという土地は、いわゆるアメリカの、これが西部!という感じの街だったので、典型的なアメリカの風景がたくさんあるんです。それが僕の目にはとても新鮮に見え、だから被写体は、街のなかのいたるところにころがっていました。カウボーイの形をした看板とか、英語でいうところのカルチュールアイコンというのですか、そういったものに的を絞ったシリーズを撮っていました。それからもうひとつのシリーズは、逆にアメリカ人から見た日本人の典型的なものといったテーマで、日本人の留学生仲間を自分の家に呼んで、ふんどしをつけさせたりするんですよ。それで、アメリカ人のあなたたちは、日本人のことをきっとこう思っているに違いないというポーズをつけて撮ったシリーズです。それはかなり受けましたね(笑)。同じことをやっても日本人の感覚だと新鮮に見えるということもあって、それなりに高く評価してもらえました。

リノでは、見るもの聞くものすべてはじめてですから、学校での勉強にかぎらず、生活しているだけでいろいろな刺激を受けました。自分もすごく積極的になっていて、日本ではできないようなことでも、興味がわくと何でも試していました。まず、釣りですね。田舎町なので、きれいな川や湖がそこら中にあって、大学生活の間はずっと夢中になっていました。マウンテンバイクもそのひとつです。友人から「持っているからやってみるかい?」と誘われ、もともと“いいなあ、やってみたいな”なんて思っていたので、とびついたら、おもしろくてのめり込んでしまいました。バスケットも、ずっと続けてこられたし。仲間が、毎週体育館に集まって、そこでまたいろいろな国の友達とも知り合うことができました。高校のころは勉強と遊びを両立することが、なかなか上手にできなかったけれど、アメリカでは勉強はもちろん、それ以外のこともとことん追求するようになって、お互いを自分のなかでバランスよく消化できるようになりました。やはりアメリカに行って僕なりに自信もつきましたし、1つのことを深く専門的に学ぶということに対する感動があったので、僕がもともと持っていたキャラクターが一段と濃くなったのかなとは思いますね。

現在勤務している「テックインフォメーションシステムズ」という会社は、東芝テックグループの一員で、企業紹介ビデオやコマーシャル、メーカーの新製品プロモーションビデオなど、さまざまな映像を制作する会社です。その映像作品のなかで、たとえばキャラクターを登場させたいというときに、CGでデザインしたり、アニメーションを作ったり、あるいは特殊効果などを、パソコンを使ってつくるのが僕の仕事です。肩書きはCGクリエイターということになっていますが、小さい所帯なので、手が空いていれば、Webサイトを手掛けたり、各種マニュアルをデジタル化するなど、あらゆるデジタルコンテンツの制作に携わっています。

CGについては、それほど専門的に勉強したわけではないのですが、写真のクラスで学んでいるとき、デジタルメディアというクラスがあり“ふーん、そういうのもちょっとおもしろいな”と思い、同時進行でとっていたので、いわゆるベースはありました。卒業する直前にそのデジタルメディアの教授から「君はもう卒業だろ。日本に帰るのか?帰ってどうするつもりだ」と聞かれたのですが、そのときは何も考えていなかった。後のことは帰国してから考えようと思っていたので「まだ考えていないけれど、写真で生活していくのはちょっと厳しいと思っている」と話したら、「それなら、CGをやればいいじゃないか」と言われまして。僕も単純なので“ああ、そうか、そんな道があったんだ”と思い、CGの技術が行かせる企業がないものかと探していたところ、運よく地元に就職先を見つけることができたというわけです。

大学で写真を撮っていたときから変わらないテーマは、観た人に「あっ」と言わせる映像を作りたいということです。僕のつくるものはすべて映像なので、大きくても小さくても、人に見られることが前提なわけです。ですから見た人が一瞬「はっ!」となるような、そんな絵をつくりたいと、いつもそのことを心がけています。

僕は高校のとき将来のことをしっかりと決めていたわけではありませんでした。それがいいか悪いかは人それぞれだと思うけれど、曖昧なままでも一歩踏み出せば、その先のステップが見えて、自分の選択肢が広がっていくということもあると思います。ただ自分の人生のターニングポイントというか、その瞬間を見逃さないことは大切です。いつもそういうアンテナを張っていることができれば、たとえ迷ったとしても、結果、自分にとって正しい選択ができるはずだから。そういう嗅覚のようなものが養われたのは、やはり留学という経験のおかげかなと、いま思うんですよね。

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