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同窓生インタビュー

<2003年>
高橋洋介さん NIC第7期生 東京都・私立明星高校男子部出身
カリフォルニア州立サンタモニカ・カレッジ演劇学科卒
ダンス振付師


自分の意志で何かを選びはじめたとき、
世界はがらりと姿を変えていきました!

いまこうして振り返ると、高校生のころの自分は、何だか口を開けてボーッと突っ立っている、そんな感じでしょうか。

高校3年の夏までは、まだ日本の大学に入ろうと思っていましたから、毎日図書館で受験勉強をしていました。理由などなくて、ただ父に「自分の息子は○○大学でね」という、ちょっとした自慢話をさせてあげたいだけのことでした。高校は付属校だったから、楽をしようと思えばそのまま進学もできたのですが、それでは父は喜ばないだろうからと推薦を蹴って。それなのに夏休みが終わっても、大学で何を学びたいかなんて考えもしませんでした。2学期になって最初に登校したとき“授業はつまんないし、何か雑誌でも見ようかな”と思って図書室をブラブラしていたら、図書の先生につかまって「君は何がやりたいの?どこに行きたいの?」と問いかけられたんです。当然僕は何一つ答えられませんでした。ただひとこと言えたのは「親父に、いい大学の名前を言わせてあげたい」ということだったんです。そうしたら案の定あきれられまして「何を言っているの」と。そこからが運がいいのか悪いのか、その先生がかつてハワイに留学した話を聞かせてもらって、“ああ、留学か、悪くないな”と思ったんです。もちろん母は日本の大学に行くと思っていましたから「何言っているの。いいから勉強しなさい」と言います。そこで説得材料を集めていくうちに、NICに出会って、パンフレットを親に見せながら、「これからは英語ぺらぺらの人間にならなきゃだめなんだよ」とか片っ端からもっともらしいことを並べて、「僕は海外に行って親父と貿易をするんだ」なんて、貿易の意味さえもわからずに。

父はそのころ海外出張などもしていたので、英語の必要性は感じていたらしく、「まあ、そんなに言うならやってみればいいじゃないか」ということになりました。もっともNICの面接でも、親が言ったことを暗記して話していましたから、推して知るべしという感じですね。インターネットもそれほど一般的でなかった時代に、父のビジョンを拝借して、これからはコンピュータが何かしらの形で出てくる。そうなると、海外と日本をつなぐ人材はきわめて重要である。であるから実践的な英語の力を身につけ、「生きていく英語」を得ることによって、今後有望なコンピュータ分野で活躍できるのではないのか!みたいなことを言いました。もう、ドンピシャリでしたよね、いま思えば(笑)。内心こんなこと言っていいのかなと思う反面、“親父、ありがとう、助かった”と。
c2001 Aimee Koch

最初、サンフランシスコをめざしていたのは、仲良しの女の子がサンフランシスコの大学に行くと言っていたので“よし、おれも絶対にそこ”というただそれだけのことです。親にも「サンフランシスコに行くよ」とか、一応かっこつけながら言っていたんですけれど、留学先を決定する直前のカウンセリングで、「あなたは、サンフランシスコよりサンタモニカよ」と言われて。理由は、まったくわからないです(笑)。思うにサンフランシスコは、俗に言う『いい学校』で、僕が行ったら落ちこぼれるという優しさだったのかもしれません。いまとなっては真相はわかりませんが。

サンタモニカに着いてすぐ、あなたはこの日にカウンセラーに会ってください、という通知をもらい、学校に行きました。そうしたらカウンセラーが話していることが、すでにまったくわからないんです。きっと緊張していたのもあると思うんですけど、優しく接してくれていたのに自分だけ焦って、彼女に言ったのは『とにかく僕の英語レベルに合ったクラスを選んでくれ』ということだけでした。結果、英語と数学、音楽、そして演劇その4つをとって。そのときはまだ、これなら簡単だろうと思っていました。日本で一生懸命英語も勉強してきたし、何とかなるという気持ちはあったんです。

演劇に関しては“たぶん歴史や理論だろうから、本を一生懸命読めば何とかなる”と思っていました。ところがクラスに行ったら、日本人は僕1人で、いきなり授業が始まって、何が何やらまったくわからないまま終わりました。逃げ出すように教室を出ながら、ここは僕のいる場所じゃない、これはだめだと思って。言葉はまったくわからなかったけれど、内容は明らかに歴史ではなく、慌ててシラバスを確認したら、アクティングと書いてありました。“アクティングって芝居のことだよな、いや、でも、まさか芝居はないよ”と思って、泣きながら自転車をこいで帰ったんです。ほかにもまだ授業はありましたが、とにかく家に帰り泣きながら親に電話をして、「いや、とりあえずだめだよ。英語何言っているかわからないし、友達もいないし、無理」と、そのときは本当に涙を流しながら、勘弁してくださいという感じでしたね。でも、そこで母は、ある意味無責任というか、「まあ、そう言われてもねえ。頑張りなさい」って(笑)。

僕としては「ちょっとでも頑張ってだめなら帰ってきなさい」という甘い言葉を期待していたんですけど、母は迷いながらも頑張れと言った。そこで多少なりとも勇気が出たんですね。そこでシラバスを、辞書を片手に一生懸命調べたんです。すると1週間後にモノローグがあると書いてある。モノローグって何だろうとまた辞書で調べると、一人芝居と書いてあるんです。そんな、芝居なんてもちろんやったことないし、英語もしゃべれないし、何でいきなりおれは一人芝居をしなきゃいけないのかと、また泣いたんですが、とりあえずやらなくちゃいけないとなって。そこから毎日、アクティングの先生のオフィスに通って、しゃべれないのにそこに立っているんですよ。ここで何をしたらいいの?状態の自分を、先生も本当にあわれんでくれたんだと思いますけど、これを読みなさいと1冊の本を手渡され、ステージの立ち方から教えてもらいました。わけもわからないまま、家でも一生懸命練習して。発表の日は、とにかく必死で、自分なりにパフォーマンスをしたら、みんながスタンディングオベーションしてくれるじゃないですか。「よくやったよ!おい!」という感じで、そのときに、「いや、もう、おれには芝居しかない」と(笑)。

それまでは母親だったり父親だったり、人が喜ぶことが自分にとっての良いことで、そこに自分の喜びというのはありませんでした。母が喜ぶ顔や、父の「よく頑張ったな」という言葉を期待していただけで。でも、そのクラスで一人芝居をやったとき、はじめてなのかなぁ、自分がうれしかったんです。本を丸暗記して人前に立っただけでしたが、そのときはじめて日本では味わえなかった、人間として認められたような感覚を知り、自分にはチョイスがあるんだということを知ったんです。

それでもまだ英語はコンプレックスでした。細かい文法を気にしたり、もちろん勇気がなかったりとか、そういうのが重なって、ものすごくフラストレーションがたまっていたんです。毎日寝ないで辞書を引いているような状態で、それで、ちょっと、道で踊ったんですよ(笑)。初めのころは、踊りというか、ただ単に裸になって電信柱につかまっていたりとか、そういうレベルなんですけど。自分がこんなに動けるんだということはまだ知りませんでしたから。それで路上で踊っていたときに観客のアメリカ人から、「君の踊りは舞踏みたいだね」と言われたんです。“舞踏って何だよ”と思って調べたら、こんな世界が日本にあったんだと思って、芝居と踊りにのめり込んでしまったんです。

路上で踊って、学校内で踊って、それでみんなが知る存在になって。少しずつ増えていった友人も、そういう僕のパフォーマンスに対して「やあ、頑張ってよ」と言ってくれたので、ずいぶん助かりました。そのときに叩かれていたら、どうなっていたか。学校の先生も、卒業したらどうするんだとカンパニーを紹介してくれたり、まわりの人がすごく応援してくれて。いよいよ学校を卒業するというとき、一番強かった気持ちをとって踊りをやろうと思ったんです。それでインターネットでいろいろ調べたら、当時踊りはドイツがものすごく熱かったんです。“じゃあ、ドイツに行こう”と決めて、ネットで調べた人のところにメールを打ち、返事も待たない間に、バックパック1つでドイツに渡りました。ロスの家はもう引き払って。

お世話になったのは遠藤ただしさんという日本人の舞踏ダンサーです。奥さんがドイツ人で、ガブリエルさんというんですけど、2人には本当にかわいがってもらいました。初めは彼のアシスタントから始まって作品に出るようになりました。自分にはチョイスがあると知り、そのチョイスをすることによって、また新しい人間に出会い、その人たちが受け入れてくれて、本当にラッキーの連続ですね。

ドイツにはちょうど1年ぐらいいて、その後はニューヨークです。ニューヨークに着いてすぐ、ちょうど日本人の演劇グループが公演をやるにあたってのメンバーを募集していたので、2週間目ぐらいにオーディションを受け、それから2年間ほど一緒に活動していました。そのグループの芝居では、MITF(ミッドタウン・インターナショナル・シアター・フェスティバル)でBEST OFに選ばれ、そこであらためて芝居の深さを知りました。主な活動場所はオフオフブロードウェイです。レッドルームシアターやロースペース、プロデューサーズクラブシアター。安部公房を日本語と英語で演ったり、イギリスの劇作家でハロルド・ピンターという人の作品を取り上げたりしました。

そのグループのおもしろいところは、役者が主体ということです。公演の日程が決まると、まず役者が話し合って『いまおれは役者としてこういうチャレンジがしたいから、この台本を使いたい、そのためにはこの監督とやっていきたい』と。だから監督のオーディションもしますし、プロデューサーから、裏方から、すべて自分たちで創っていくんです。なぜそうするかというと、ニューヨークにはダンサーでもアクターでも、何万人といるわけです。その中で勝ち残っていくためには、自分しか持っていない武器が必要なんですね。そしてその武器を磨くためにも、受身の姿勢ではなく自分から情報を発するという意味でセルフプロデュースというか、自分が自分でリプレゼントする。公演にしても、一般の方ももちろん来てもらいますが、本当の狙いはエージェンシーやプロダクションの人を呼び、こういう日本人の役者がいますよ、どうですか?とアピールすることなんですね。

ニューヨークに来て3年になります。昨年1年間はずっと踊りをやっていました。踊りの学校に行き始めて、そこで1人でパフォーマンスをしたら、それを見ていたニーナさんというフランス人の振付師から「一緒にやってくれ」と言われて。何十本踊ったか、それもわからないぐらい踊りました。それには理由があって、去年の10月14日にELAN AWARDSという大きな公演があったんです。ブロードウェイミュージカルの演出家たちがそれぞれ小さな作品を持ち合う公演で、ブロードウェイ「シカゴ」に出ていた女優とか、アン・レインキングなどの有名な振付師も参加する、有名な公演です。僕たちもそこに参加してみないかという話をもらって、ニーナさんと一緒に1年間作品をつくっていきました。参加して思ったのは、どれだけ有名な振付師か知らないんですけど、まったくおもしろくないんです。ダンサーのレベルは高くて、僕より柔らかいし、足が上がるし、かっこいいし、きれいだけど、おもしろくない。きっとマーケットがそういう人材(商品)を求めているのだろうけれど……。

ニーナさんと僕が振り付けした共同作品は、700人の観客が総立ちで、スタンディングオベーションの嵐でした。僕はそれを見たとき震えが止まりませんでしたね。1年間費やしてきたことが間違っていなかった。それが非常にうれしかったし、感動しました。自分のコミットメントから生まれた自信とあの拍手は今の僕の活動のもっとも強い原動力になっています。

外から見ても、日本の社会は時の流れがものすごく早い。物があふれていて、何でも簡単に手に入って、使い捨てで、表面的な楽しみ方が何でもできる国ですよね。そういう環境で一番に失われていくのは、やはり真剣な気持ちだと思います。僕も高校時代までは100%の受け身でした。何がやりたくて何がやりたくないのかもわからず、勉強していい点数を取ればなんとかなっているように思えた、だけどただそれだけのことで、「自分の人生」という意味が僕にはわからなかった。 今想えばNICのプログラムには感謝しています。

NICの学びがなかったら、いまの自分はいないと思います。何かに属している安心の中でしか生活する事を知らなかった僕。個人レベルでいつでも危機感、責任と一緒にいる今の僕。そんな違いと出会うチャンスをくれた場所だったと、あらためて思うんです。

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