TOP
第19期生
第18期生
第17期生
第16期生
第15期生
第14期生
第13期生
第12期生
第11期生
第10期生
第9期生
第8期生
第7期生
第6期生
第5期生
第4期生
第3期生
第2期生
第1期生
同窓生インタビュー

<2003年>
重政泰ニさん NIC第1期生 
広島県・私立広島城北高校出身
ネバダ州立大学リノ校経営学部マーケティング専攻卒
株式会社サイバード勤務


人は、努力次第でどんなことでも実現できる。
私はそれを自分の人生で証明したいと思っています。


NIC、当時のネバダ州立大学日本校の1期生です。留学を決意したのは、留学で人生の一発逆転を狙いたかったからです。知り合いの留学経験者に話を聞くと、卒業できない人も多いし、当時はまだ留学生が就職するといっても、企業側に理解がなく「卒業してもどうなるかわからないよ」と、あまり明るい話題はありませんでしたね。それでも“このまますべり止めで受けた大学に行って満足なのだろうか”という疑問が頭を離れず、『しないで後悔するより、やって反省しよう』と、あえてリスクも大きい留学を選びました。

NICでは、入ってすぐにクラス分けの試験を受けさせられました。私は、ここで好成績を取ってアピールしたかったので、面接用の想定問答集をつくって暗記していったんです。それがある程度当たって、会話もそこそこスムーズに進んだため、いきなり一番レベルの高いクラスに入れられてしまいました。入学してクラスを見渡すと、アメリカのハイスクール出身とか、旦那さんがアメリカ人とか、帰国子女など、英語が得意な人たちばかりでした。当然授業のペースも彼らのレベルに合わせて進んでいくので、最初の数ヵ月は特に大変でしたね。授業は聞き取れないし、自分の表現力も英語だと3分の1以下になってしまって。それでも必死で勉強しながら、何とかそのクラスのまま渡米まで乗り切りました。

マーケティングを学ぼうと決めたのは、進路を決定しなければいけない最後のタイミングの時でした。高校時代はパイロットになりたいと思っていましたが、私は自他共に認める文科系の人間でしたから、文系のなかのビジネスに直結するような専攻を選びたいと思うようになっていたんです。ちょうどそのころ日米貿易摩擦が騒がれていて、テレビではアメリカの議員が日本製のラジオとかを叩き潰しているシーンが繰り返し放送されていました。私は、なぜそのようなことが起こるのかきちんと知りたいと思い、よりビジネスへの関心が深まりました。そこでビジネスについていろいろ調べてみたのですが、マーケティングの専攻紹介を読んだときに(日本の大学にはまだマーケティングの専攻はなかったと記憶しています)、自分のイメージに近いのはこれだと思いました。

最初にとったクラスは、エコノミクスの101という基礎のクラスで、台湾系アメリカ人の教授でしたが、独特のなまりがある英語なのに、話すスピードはアメリカ人向けの速さですから、余計わからない。板書もバンバン書きますが、これがまた読みにくいうえに、ノートしているはしから消されていくんです(笑)。アメリカ人は意外とあっさりしていて、最初の1、2週間で自分には合っていないと思うと、すぐドロップ(履修取り消し)します。知り合いのアメリカ人達も次々とドロップし、私だけが残りました。ほかには日本人もいないクラスだったので、困ったことになったなあと。それで教授に「こういう状況でとても困っている」と直接相談したら、『きちんとやることをやれば認めてやるから、わからなければ必ず聞きにこい』と言われ、授業の後、聞き取れなかった部分を細かく説明してもらって、わからない言葉は教授が僕の鉛筆を取り上げて自分でノートに書いたり。それでもわからないときには漢字を使ってもらいました。「パナソニック」という言葉が聞き取れなくて、うん?と思っていても、「松下」と書いてもらえばわかりますよね(笑)。試験の前には出題範囲を片端からレポート用紙に書き、枚数にして15枚から20枚ぐらいあるものを全部読んでいきました。

睡眠時間はずっと3時間程度でしたが、何でも体当たりでやっているうちに、NIC入学当初はまったく英語が聞き取れなかった私が、学部のトップ5%の学生が選ばれるディーンズリストに名前が載るまでになりました。でも、それでも私は満足しませんでした。これができれば「重政にはかなわない」といわれるような次のステップに挑戦したいと思いました。そこで何をやろうか考えたときに、目をつけたのがROTC(予備役士官訓練プログラム)でした。前々から、軍事科学として専攻があるというのは聞いていたので、隙あらばと狙っていたんです。

もちろん最初は相当困惑されました。留学生が何を言うかという感じでしたが、結局は向こうが根負けしたんです。そこも体当たりですね。たまたま教官の中に長く沖縄駐留を経験していた人がいて、味方をしてくれたというラッキーもありました。入るとまずは、腕立て伏せと腹筋の世界です。根性を見せろというか、まさにイメージ通りの訓練を散々やらされて。それをクリアしてある程度認められると、今度は将校としてのリーダーシップの勉強や、もちろん野外演習もやりました。ライフルを持ち、迷彩服を着て、カリフォルニアとネバダの州境の森の中で3日間戦闘訓練とか。おもしろいのはみんな学生ですから、背中の装備の中に教科書を忍ばせているんです(笑)。次の日がテストだと休憩時間には黙々と勉強です。そういう訓練を経て、だんだんまわりも認めてくれて、射撃競技のチームでは全米で6位にはいったこともありました。

留学で得たものははかりしれないのですが、あえて言うなら異文化に入り込んでも自分を確立していける力、精神的にも肉体的にも辛いなかでやり通す持続力、それから相手に自分の意志を正確に伝えるということが身についたと思います。

大学を卒業する前は、まだ景気もよくて留学生対象のキャリアセミナーが頻繁に開かれていたのですが、ちょっと楽観視していたら、次に帰国したときはバブルがはじけた後でした。採用側の態度もコロッと変わって、就職活動に四苦八苦しているとき、セブン−イレブン・ジャパンに出会ったんです。まだそのころは「何でわざわざコンビニの会社なんかに」というぐらいのイメージしかありませんでしたが、学生から見てもはっきりわかるほど、セブン−イレブンという会社には個性と魅力がありました。事業内容、社会貢献などの紹介は的確で、こういうビジネスをやるというビジョンも明確でしたから、学生の質問にもストレートに答えていたのが印象的でしたね。

セブン−イレブンに採用になって、入ってみたら、留学経験があろうとも何の特典もなく直営店舗の店員からのスタートでした。せっかく留学までして最新のマーケティングを学んできたのに、18歳ぐらいのアルバイトとペットボトルを並べている。しばらくしたら店長になれるとか、そんな保証もどこにもない。それでも一生懸命やれば認められるだろうとがんばりました。チェーン店全店の店内清掃を徹底しようというキャンペーンでは、全国のチェーン店オーナーを招いてその効果を説明し、作業メニューに導入してもらうことに貢献するなど、少しずつ評価されて副店長になったまではよかったんですが、配属された店は、売上が全国でも最低レベルという苦難の場所でした。最初の半年ぐらいは何をやってもだめでしたね。悪いこと続きです。悪いお店というのは何をやっても悪い。そんな時に、新しく店長が配属されてきました。在庫管理や棚卸しの管理をとてもきっちりやる人で、責任感も強く、それが自分とうまくかみ合ったんです。「私は絶対にここを守るから、重政さんは重政さんの仕事をやってくれ」と。その後は、たとえば何かの商品をテスト販売すると、それまで最低の売上しかなかった僕らの店が、トップレベルの成績を上げたり、徐々に結果が出るようになりました。そういう低迷店の売上を伸ばしたことが評価され、その店長は現場のアドバイザーに。私も店長になり、一年ぐらい経ったある日、海外プロジェクトに参加することになったんです。

売上を伸ばした功績と英語力が買われての抜擢でした。それは、アメリカ本土のセブン−イレブンを建て直そうというプロジェクトでした。当時アメリカのセブン−イレブンの状況は店舗の撤退に次ぐ撤退で、オーナーたちの不満も渦巻いていました。しかし、彼ら現場の人間は私の言葉に耳を傾けてくれました。それは、私が現場を知っていたからなんです。しかも、日本で私が苦労していた経験が、アメリカの置かれている状況に関する理解を助けた。そんなわけで、全米のセブン−イレブンの仕事のやり方は、日本での私の現場での経験がお手本になっていたりするんです。成果を出した私は、アメリカ人スタッフにこう伝えました。「大学受験で失敗したとき、日本の社会は私を見捨てたけれど、アメリカは見捨てなかった。努力をしっかりと認めてくれた。それに対する恩返しなんだよ」って。

ひとつの成果を出したことと、もともとマーケティングに興味があった私は、セブン−イレブンを辞めジュピター・プログラミングという会社に転職。マーケティングの実務を一から勉強しました。たとえば広告をつくるといっても、デザイナーに対して「こういう趣旨の広告をつくってください、理由はこうですから」とちゃんと伝えられないといけない。また一方で、メディアプランを考えなければいけない。雑誌なのかラジオなのか新聞なのかといったような、ひとつひとつ挙げればきりがなくて、勉強しなければいけないことがたくさんありましたね。そのとき私は29歳ぐらいで、一通りマーケティングを経験した後、コンサルティング会社に転職しました。どうも販売系のコンサルティングができる人材を探していたらしく、応募して1週間もしないうちに内定が出ました。

コンサルティング会社で担当したのは、私の場合日本企業がほとんどで、主に販売系のところばかりを経験してきました。SCM(サプライチェーンマネジメント)をやって、最後はCRM(カスタマー・リレーションシップマネジメント)も担当しました。4年間で11プロジェクトというのは相当ハイペースだと思います。コンサルタントの仕事はきついぞ、といううわさどおりで、私生活はありませんでした。

現在所属しているサイバードという会社は、180 人ほどいる社員の平均年齢が30歳という非常に若い会社です。役員も30代が中心で、最近話題をさらったスターウォーズのコンテンツなど、ドコモを中心とした携帯電話のコンテンツをつくっています。そこで私は経営企画に携わっているのですが、そうそうたる経歴をもつメンバーに囲まれて、たとえば、組織構築、事業計画立案、M&Aなど、トップのディシジョンすべてに関わる仕事をしています。これまでにビジネスの世界を一通り経験してきたことをベースに、いよいよ、ビジネス・シーンにおいて企業のトップが関わる部分での仕事を任され、ここから先は本当に上まで行くしかないところまで来てしまいましたね。

ずいぶん昔、ハタチ前のころに大人から「いいねえ。これから将来を悩めるというのはうらやましいよ」と言われたことがありました。それはなぜかなと考えると、そのころの普通の人は30歳ぐらいになったら自分の人生の方向が定まって、同時に自分の限界も見えてくるんですね。でもいま自分はその年代になったのに、先はまったくわかりません。

私はごく一般的な地方のサラリーマン家庭で育ちました。そういう普通の能力の人間が、努力ひとつでどこまで世の中で成功できるか、これはそういう挑戦なんです。人間は、どんな状況からスタートしても、何度挫折を味わおうとも、自分の努力次第で何でも実現できると未だに信じています。私は、すっかり冷めてしまって若々しさがない今の10代の人たちに、実例がちゃんとあるということを自分の身をもって証明したいと思っているんです。

いいのか悪いのか、私の人生はまだ落ち着く気配がないですが、今まで培ってきたものを全部出して、明日も仕事をしていこうと思います。


>第1期生トップに戻る
Copyrights c 2003- NIC International College in Japan All Rights Reserved.