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同窓生インタビュー

<2003年>
設楽聡さん NIC第1期生 埼玉県立秩父高等学校出身
ネバダ州立大学リノ校経営学部(副専攻・スペイン語)卒
教育学部大学院修士課程英語教授法卒
NIC教員(NICで唯一人の日本人教員)


NICでは、一番下のクラスからスタートだから、あえて言える。
留学は勉強以外の経験の宝庫です。


僕の父はかつて、留学を希望しながら家の事情などで断念したことがあったらしく、ずっと以前に「将来はそういう道もあるんだぞ」と言われたことがありました。でもそのときは、まさか僕が留学するなんて思ってもいませんでしたが。

高校では、3年間野球をやっていました。勉強のほうは大分おろそかでしたね。3年生になって部活も終わり、そこでハタと気づいたんです。自分の行きたい大学にはこの成績では無理だ、と。そこで、留学という道を思い出しました。アメリカの大学に行けば、最低限帰ってきたときには英語が話せるようになっているだろう。それから当時は1980年代後半で、日本製品のボイコットがあったり、日本がバッシングを浴びていた。日本は本当にそんなに悪い国なのかという疑問があり、日本を外から見てみたいというのがもうひとつの理由でした。そうとなったら、早いほうがいいだろうと思い、留学の仲介をする機関に相談しました。僕はもうすっかり留学するつもりでいたのに、ある日そこから電話がかかってきて「いまは留学しないほうがいい」という話をされたんです。どちらかというと大学生の留学が専門だったらしく、その人の考えでは、高校生ではまだ早いと。しかも僕は英語がまったく話せませんでしたから、それでは無理だと言うんです。それでも僕は「何もできないのはわかっている。それでも行くつもりなんだから心配しなくていい」と、あくまで留学を主張しました。ですが、親がやはり不安がってしまって、その話は立ち消えになってしまいました。

そんなことがあった後、僕が家で新聞をめくっていたとき(翌年の受験に備えて共通一次試験の問題か何かを見ていたのですが)、その姿が母の目には、留学の話がなくなってひどく落ち込んでいるように見えたらしいんですね。その新聞にNICの記事が出ていたのも偶然ですが、それを見た母は「日本で1年、行くときはみんな一緒。これだったらいいんじゃないの?」と言いだしまして。一番反対していた母がそう言ってくれたし、僕はアメリカに行けるなら渡りに船ということで、すぐに願書を出しました。試験の後の面接で、「設楽君は成績が悪い。これではだめだけれども、もし本当にやる気があるのだったら方法はあるんだよ」という話を聞いて、「じゃあ、それで結構ですからお願いします」ということで入学しました。

NICの1年間は、いままでこんなに勉強したことはない、というぐらい勉強しました。先生のチェックが厳しかったということもありますが、何よりやればやっただけ成果が見えることがうれしかった。本当にゼロからのスタートだったので、わからなくて当たり前、1つでもわかったり、先生が少し笑顔を返してくれるだけで、大よろこびという感じでした。とにかく勉強が楽しかった。

アメリカに行って、まずはサマーブリッジプログラムを受けました。これまた楽しいんです。授業は大変だったけれど、寮に帰ってくれば友達がいるし、アメリカのキャンパスも街の暮らしもすべてキラキラしていました。渡米したときにTOEFLの得点は440点で、NICで最初に受けたときが確か360点くらいでしたから、自分では“おー伸びてる伸びてる”と。それからもう一度受けたら、今度は470点。“あっ、また伸びている”と思ってよろこんでいたら、クラスメイトが500点以上とっていて、上にいっちゃうんですね。そこでようやく気づいたんです。自分はいままでのんびりしていたけれど、これではいけない、って。それまでは毎日が楽しいので、授業に行って先生と話して、宿題をやって満足していたんですけど、友人がどんどん上がっていって、自分だけが残されていく。“これはやらなきゃいけない”と思いました。それから一生懸命に勉強をはじめたのですが、結局僕は、1年間ずっとESLだったんです。NICで1年、リノで1年、学んだことは英語だけ。さすがに親にも申し訳ないし、焦りました。でもいま思うとあの時間が、その後の僕にとっては貴重なものだったんです。もし仮にスムーズに500点とっていたとしても1年目でつぶれていたかもしれません。特に学部に入ってからの1学期目というのは大変でしたから。

何とかその1年を乗り越えて、でも学部に入ってからも苦労は続きます。たとえばライティングのクラスでは、それなりに一生懸命書いてはいても、全然話にならないんです。評価はD。1回出してだめで、2回目もだめで、3回目にようやくBがとれるという状態でしたね。英語が下手でしたのでしかたがないんですが、そのころは食事しているか、寝てるとき以外は、ずっと勉強していましたね。それでも2学期目になると要領がわかってきて、だんだん落ち着いてきたんです。そこで2学期が終わるぐらいに、これは何かしないともったいないと。もともと留学するときから、自分に与えられた時間は卒業するまでで、その後は日本に帰るというのが暗黙の了解でした。だから、とにかく日本では経験できないことをしないともったいないと思っていたんです。そこで大学のライフル射撃競技のチームに入り、また、そのほかにもボランティアで日本語を勉強するアメリカ人のサポートもしました。ライフル射撃チームでは最終的にキャプテンをまかされ、日本語のボランティアでは、その後、大学4年生のとき正式に日本語クラスのチューターを務めることになりました。チューターの仕事はとても楽しかったです。日本のことを聞かれたり、日本に理解を示してくれる人とつきあうのは、やはり日本人としてはうれしいことなんです。それからチューター同士の交流もあって、アメリカ人のほかに、当時はドイツ人とか、インド人がたくさんいました。そういうコミュニケーションも新鮮な経験でしたね。

帰国して最初に勤めたのは地元のアパレル関係の企業でした。海外の工場や提携企業とのやり取りに英語が必要だったのですが、何か便利に使われるだけで、半年経った時点で“こういう状況で仕事をしていても自分のためにはならない”と思いました。そして自分は何がしたいのかを真剣に考え、日本語のチューターをしたときの充実感を思い出したんです。自分は人に教える仕事がしたいと漠然と考えるようになって。でも仕事を中途半端で投げ出すのもイヤで、とにかく3年は会社で我慢しよう、それから日本で日本語教師になるか、もう一度海外に行って、日本語の勉強をするんだ、と決めました。ただその間も、気持ちは満たされないものがあり、会社には内緒で英語塾の講師をしていました。渡米するためにはお金も必要でしたし。

3年後、会社を辞め“どうせ勉強するならば、日本語を外国語として勉強する人たちのなかで勉強したほうが自分のためになるだろう”と思い、リノにもどりました。

顔見知りに挨拶をしてまわり、チューターをしていたとき世話になったディレクターにも会って、アメリカで日本語の勉強をすると言うと、すぐにいろいろなところに電話をかけはじめました。僕は日本語を勉強するつもりでいましたが、彼女から日本人なんだから日本語能力は保証されているということで「あなたの場合は、TESL(ティーチング・イングリッシュ・アズ・ア・セカンド・ランゲージ)をやったほうがためになる。そうすれば英語も教えられるし」と言って、TESLの先生に「こういう学生がいる」と電話をし、「それなら、いくつか情報を記入すれば入学手続きはOK」ということになりました。2週間ほどたってコングラチュレーションと書かれた手紙が来て、教授に会い入学が決まりました。そのときに「TA(ティーチングアシスタント)という仕事があるが、もしよかったら申し込んでみれば?」と言われたんです。TAをやれば 1ヵ月に900ドルのお給料がもらえるという。そのほかに大学院で学ぶために必要な1単位90ドル以上の授業料が5ドルくらいになる。仕事の内容もまだわからないのに、これはいいと思っていると「教えた経験はある?」と聞かれたので「塾で2年間教えていた」と答えると、「ああ、それでOK」と。それからライティングのサンプルを提出し、最後に「英語のテストを受けてください」と言われたんです。留学生がTAになる場合は、全員英語のテストを受けなければいけないんですね。

自分を雇ってくれようという人が声をかけてくれて、あとはテストを受けるだけとなれば、普通受かるつもりになりますよね。でも、このテストがかなり厳しくて、じつは1つの項目がかなり危ない点数だったらしいんです。でもそれも何とかクリアして、TAになることができました。ところがこれがまったく予想しないほど大変な仕事で、しばらくはそれこそ寝る時間もなくなってしまいました。

大学院での最初のクラスはセカンド・ランゲージ・エデュケーションといって、人間はどうやって外国語をマスターするかというクラスだったんです。分厚い教科書が4冊ぐらいあり、それを夏休みの1ヵ月ほどで消化するんですよ。内容は非常に高度だし、クラスのメンバーは大人ばかりで、聞いてみると、ハイスクールの先生だったりするんです。もうプレッシャーで疲れ果ててしまいました。

ただ自分の勉強はできなくても自分が恥をかけばすみますが、教える立場というのはそういうわけにはいきません。一度学生からの信用をなくせば、それを取り戻すのは難しいし、自分もダメだと思われたくない。だから大学院の授業のほうはもう放っておいて、TAの勉強を必死でやりました。自分が教える教科書は隅から隅まで読み、単語は全部わかるようにしておくのは当り前で、ここでこんな質問が出るにちがいないと予想して答えを用意しておくとか、それこそ血のにじむような努力。最初のセメスターは本当に大変でした。しばらくして勝手がわかってくると、だんだん自分の勉強もできる余裕ができましたが。

大学院を卒業する少し前に、用事があって一時帰国したことがあり、そのときNICに顔を出したら、先生から卒業したらどうするのかと聞かれました。「半年ほどメキシコに行き、その後は日本に来て働くつもりだけれど、まだ何も決まっていません」と答えると、「じゃあ、うちに来る?」と言われて。意外でしたけれど「そのかわり、インタビューをちゃんと受けてね」ということで、インタビューを受けて、英語のテストをされて、NICで教壇に立つことが決まったんです。

NICで教えるのはとても楽しい仕事です。教える側にとって一番大変なのは、勉強したくない人に教えることなんですね。その点、ここに来る人は将来の目標があって、そのために英語が必要で、だから一生懸命勉強して英語をクリアする。そういうモチベーションがあるので、教えるほうもやりがいがあります。

僕もそうでしたが、せっかく留学に行くのなら、勉強はもちろんとして、ほかにもいろいろ経験をしてほしいと思います。僕が大学で勉強したのはエコノミクスです。それからスペイン語を少し。でもそういう勉強よりも、1年間余分にESLの学生だった経験とか、そこで生まれた人間関係、クラブ活動、チューターを務めた経験など、専攻以外のあれこれのほうが、いまの自分の肥しになっているのは明らかです。そういう経験があとで生きてくることは少なくないから、寄り道と思わず、何か1つでも出会いを見つけて、そこからさまざまなことを吸収してほしいです。ボランティアをするもよし、クラブに入るもよし、仕事を見つけるもよし、アメリカ人やほかの国からの留学生のような、日本ではなかなかめぐり会えない人たちと一生懸命遊ぶとか、そういうことに挑戦する、とてもいい機会なんです。NICに来る学生で『4年制の大学を3年で卒業することが目標です』という人がいます。それはそれで素晴らしいけれど、自分の未来に何が待ち受けているかわからないのに、あまり自分をしばりすぎてもよくないと思うんです。反対に、「今の自分の英語力じゃ・・・」とか「自分には無理なんじゃないか・・・」って思う必要も全くないと思います。だってここに、一番下から始まって、それでもちゃんとやっているサンプルがあるのですから。



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