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同窓生インタビュー

<2003年>
中朋子さん NIC第7期生 千葉県・私立千葉英和高校出身
ニューヨーク州立大学ファッションインスティチュート・オブ・テクノロジー ファッションデザイン学科卒
衣装デザイナー(ジュリアード音楽院)


母の仕事を手伝った小さいころの自分の夢に、
何千マイルも離れた土地で、近づきつづける私がいます!

母があるバレエ団の衣装デザイン兼制作を担当していたので、子どものころから、母の仕事を手伝っていました。バレエ団の公演スケジュールから、制作のピークは5、6月で、その時期、家の中は本当に衣装だらけで。そして公演当日。自分の作った衣装を本番のステージで見たときの感動は、いまでも忘れられません。

現在の仕事は、ジュリアード音楽大学の衣装部のファーストハンドというポジションです。ブロードウェイなどの大きな衣装部の場合、ファーストハンドの人は、ただ切って縫うだけ。それ以外のことは何もできないらしいのですが、ここはやはり大学という教育機関なので、みんなで学んでいきましょうという雰囲気があります。「朋子にもどんどん経験を積んでもらおう」と考えていただいているようで、小さなプロジェクトのときには立体裁断を担当したり、マスクやアクセサリーなどの小道具をつくったり、幅広く経験させてもらっています。仕事は学生の公演の衣装制作で、在学生や卒業する年の学生による公演など、規模の大小はありますが、オペラとダンスと演劇、その3つの衣装を全部作っています。オペラ、ダンス、演劇とつねに3つが並行に進んでいくものなので、2月のピークには毎日残業になります。年間を通すと何百着作ることになるでしょうか。それにしても、セットも小道具も、すべて本当のプロが支えていますから、学生は本当に恵まれていると思いますね。

私がはじめてアメリカを意識したのは、高校主催のオレゴン研修旅行がきっかけでした。のんびりした高校生活のなかで何をすべきか悩んでいた時、偶然「海外研修旅行の参加者募集」の話を聞き、一も二もなく飛び乗ったという感じです。はじめての海外は、すべてが日本と違っていて、自分の世界が突然ひらけていく、そんな経験でした。現地での生活をサポートしてくれる学生たちとも、言葉はうまく話せなくても気持ちは通じるようで。彼らとの時間はとても貴重で、けれどもわずか3週間の旅行でしたから、今度こそ英語をきちんと学んで、必ずここに戻ってこようと強く決意しました。

両親にはじめて留学の意思を告げたときは大反対されましたが、“留学しよう”という意欲を持ったことで、成績はグングン伸びていきました。目的意識があると人間は変わるものです。最初は私が冗談で言っていると思っていた両親も、あの手この手で説得を続け、“成績もこれだけ上がった”と実績を見せたことで、少しずつ納得してくれました。

NIC時代は、とにかく英語浸けという感じでした。学校に行けば授業はすべて英語ですし、宿題はたくさん出るし、アルバイトをする時間もないほどでした。でも、先生方がとても熱心で、フレンドリーに接してくださったので、英語の力はどんどん伸びていきました。一番苦労したのはスピーチのクラス。大学必須単位としてとったクラスですが、単位のためだけでなく、アメリカの生活で、学校で、仕事で、そのとき学んだことが役に立っているので、苦労したかいはあったと思います。

日本校に入って一番よかったのは、努力をきちんと評価してもらえたことです。成績が伸びてクラスのレベルが一気に2、3クラス上がったときは、やはりとてもやりがいを感じました。上のクラスに行くたびに、クラスメイトもがんばっている人たちが多くなって、それがまたモチベーションになるという、とてもいい環境にいたと思います。映画が大好きな先生がいて、私も映画が好きだったので、いろいろな作品について話し合ったり、そういうひとつひとつのことが楽しくて、どんどん前向きに学ぶことができました。目的がはっきりしないまま強制される勉強や、本当は嫌いなのに無理やり合わせる勉強ではなく、本当に自分のために、好きでしょうがなくて、だからがむしゃらに学ぶことができた。そんな1年間でした。

留学直前までは、2年制大学に行くつもりでいました。そして2年間のうちに次にどこに行くかを考えようと思ったのですが、カウンセラーの方から「4年制でも大丈夫、できる」と奨めていただいたので“それなら4年制のほうでがんばってみよう”と思い、カリフォルニア州立大学チコ校に進むことに決めました。しかし実際に授業がはじまったらクラスに日本人はいないし、授業は普通に進んでいくし。2日目には「絶対に帰る。もう、ここではやっていけない」と思うほど落ち込みました。泣き明かすようなこともありましたが、帰りたくても帰る手段がない。本当にここでやっていくしかない。そう思って、とにかく“嫌だからクラスに行かないということだけはしちゃいけない”と決めて、前へ進んでいきました。そうしているうちに鍛えられたのでしょう。チコでの生活にもだんだん慣れて、夏の終わりには顔見知りも何人かできていました。

人それぞれ科目のとり方があると思いますが、私はとにかく自分の興味のあることを後回しにすることができず、チコでは舞台芸術科の科目を真っ先に履修してしまいました。それで、ひと通り専攻の科目を履修してしまうと“このままチコにいても、私のやりたいことはこれ以上ないんじゃないか”と思うようになってしまったんです。チコでは、ほとんどのクラスで白人でないのは私だけでしたから、なんとなく違和感を感じていたこともありました。

アメリカの各地に留学していた友人たちにも連絡をとり、情報を集めはじめたのはそのころです。LAにいくつか衣装関係の学校があることを聞き、友人の家に泊めてもらって学校見学をしたり、やはりニューヨークも見てみようと思い、ニューヨークに1週間旅行にも行きました。そのときFIT(ファッション・インスティチュート・オブ・テクノロジー)を見学して、「ここしかない!」とひらめいたんです。私にとってニューヨークは本当に別世界でした。同じアメリカでもチコとはまるで違う国のようで、すぐにFITに編入を希望したのですが、申し込んだのが遅かったのか定員オーバーでウェイティングでした。チコが夏前に終わって夏明けにはFITという予定でしたが、その年の7月までチコに。それから、次の年の1月までは日本で過ごしました。

FITには、日本で服飾を学んだ人もいて、なかには授業内容が物足りないと思う人もいるようでした。確かに私から見ても“初歩的だな”と思うような、言ってみればつまらないクラスもありましたし、逆に経験のない人にはついていくのが大変なクラスもありました。おまけに大学側も「やめたいなら、どうぞご自由におやめください。ついてこられない人はついてこなくていい」という雰囲気でしたから、やる気を維持するためには高いモチベーションが必要でした。ただ、ほとんど独学で洋裁をやってきた私には、基礎から大事に学ぶ必要があると思っていたので、たとえ簡単に感じることでも新鮮な気持ちで取り組むようにしていました。また大学がマンハッタンにあったこともあり、先生から「ここの美術館は見る価値がある」とか、「今度ファッションショーがどこそこであるから、それを見てきなさい」と、情報をもらっては出かけていきました。プロで成功しているデザイナーの人が、学校で講演を行ったり、とにかく本物を見る機会には恵まれていたので、退屈や物足りないという気持ちになることはありませんでした。マンハッタンには何でもあるんです、本当に。芸術をやりたかったら何でも。

授業ではファッション用のスケッチのクラスが印象に残っています。基本的なデッサンとは違って、ファッションデザインの人間は10頭身なんですね(笑)。また、実際に作るかのように生地を貼るのですが、ミッドタウンに生地のお店がたくさん集まっているところがあり、そこでいろいろな生地のサンプルをもらってきて、いかにも、このデザインでこの服をつくりますというふうなプレゼンテーションをしたりする。それはとても楽しい授業でした。

生地街は、ブロードウェイのシアターがたくさんあるところの少し南あたりですけれども。本当にものすごい数のお店が並んでいて、そうやって授業や課題のために通ううちに、自分の欲しい生地を探すコツや、こういうものが欲しかったらどこに行けばいいのか、知らないうちにそういうスキルが身についていきました。ファッションデザインの学校に入って、舞台衣装から離れてしまったようにも見えるのですが、やはりマンハッタンで学んだということが、私にはとてもプラスになったと言えます。

そのころから、個人的に無償でダンスや演劇の舞台衣装の依頼を受けるようになりました。きっかけはFITの掲示板で見つけたはり紙です。そこには『舞台で使う衣装をデザインしてくれる人を募集しています』と書いてあり、すぐに電話をしました。その依頼主である振付師の方も、まだ若くてこれから大きくなるぞ、という感じでしたから、「こんな感じだったらおもしろいんじゃないか」とお互いに意見を出し合って作り上げていくことができました。その後何度か、公演の衣装も作らせてもらい、演劇の衣装デザインのシステムも任せてもらいました。はじめに掲示板で告知を見たときには、1回限りのつもりでしたが、私の作った衣装を気に入ってもらえて、「次のもやってくれないか」というふうに広がっていく。それは、小さなきっかけも、そこで自分の力を出し切ることができれば、次につながっていくという自信になったと思います。

やがて卒業が迫り、就職を考える時期が来ました。私のなかに、日本に帰るという選択肢は多分なかったと思います。

こちらの大学を卒業すると、「プラクティカルトレーニング」という1年間のビザがおりるのですが、とりあえず1年間は何をしてもいいというものなので、それまでに知り合った人のコネクションで職探しをはじめました。それでも、なかなか仕事が見つからず、とにかくいろいろな人に会っては「何かあったら教えてね」と言っていたんですね。そうしたら、いまの夫(夫は脚本家です)から、「知り合いがジュリアードの衣装部で働いているけれど、彼女はもう辞めるので、代わりに誰かいい人を探している」という話をもらって、履歴書を渡しました。その後、ボスから電話をいただいて、すぐに面接をしてジュリアード音楽大学で働くことになりました。

いまは、とてものびのびと仕事をさせてもらっています。私の上司にあたるドレーパーの人も、大らかな人で、みんながなるべくストレスがたまらないように助け合う、いい職場です。普段は9時から17時の勤務です。金曜日の夜には、勉強をかねて好きな舞台を見にいったり、学校で衣装をつくった公演があるときは、そのステージを見学することもあります。それから、1年間のうち半年以上は、ジュリアードの仕事以外にも、フリーとして衣装の制作をしているので、仕事が5時に終わってからフリーのほうの仕事にかかったりですね。

留学した年から数えて、もう8年も経ってしまいました。父と母は最初2年で帰ってくると思っていたので、本当は寂しいんだと思いますが、気持ち的にはすごくサポートしてくれています。「仕事が見つかった」と言ったら本当に泣いてよろこんでくれて、アメリカ人と結婚してこちらで生活することになったときも心から祝福してくれました。純粋に私の人生のステップをよろこんでくれていますね。母とはよく、お互いの衣装デザインの仕事についてアイディア交換しています。

あのテロからニューヨークはやはり不景気で、エンターテインメント産業もかなりの影響を受けていると思います。ジュリアードを辞めてもっと大きいところに行った人や、プロの劇団に勝負に行った人が、いきなり解雇されるとか職がないとか。9.11以来、そういう話をよく聞くのですが、幸いジュリアードは学校なので、いまのところ影響を受けずに済んでいます。ですからまだしばらくはジュリアードに残って、自分の仕事の結果を残していきたいと思っています。そして、将来は、フリーの仕事を増やし、そして制作だけでなく、デザインをしていこうと思っています。アメリカは、やる気と行動力があれば、大抵のことは受け入れてくれる国です。なかでもニューヨークという街には、たくさんのチャンスがあります。だから自信をつけて、一生懸命頑張っていけばきっと成功すると思います。学校で学んだことを、いつでもつかえるように、自分のものにしていってください。

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